No.016b
新小岩周辺は大正から昭和にかけて地形が人工的に大改造されています。 このことは現在の地図と古地図を見比べるとよく解ります。
荒川は人工の放水路であり、かつての荒川は現在の隅田川のことです(昭和40年改名)。 そして、新中川も人工の放水路です。 これら放水路は、度重なる水害から村を守るために開削されました。
中川は蛇行しているので自然の川に見えますが古い人工の川です。 蛇行の理由は、池や小川を繋いで作った説と、高潮に備えてと説があります。
荒川放水路の開削工事によって中川や用水路が荒川放水路で分断されたのがよく解ります。
そして、当然立ち退きもあり、小松菜の大生産地では田畑を失い、寺が移転し、 村さえも分断、消滅、合併をしました。
木下川薬師は先に完成していた土手を壊して中川の旧河川敷跡に移転しました。 平井小学校は水没のため校舎を上平井小学校に転用しました。平井村は廃村になりました。荒川放水路によって分断された、小名木川、新川は水運のために閘門が作られました。
その閘門の一つが江戸川区のページに載せてあります。鉄道でも、東武鉄道が線路位置を大きく付け替えました。
京成電軌は奥戸街道(立石道)の上を走っていましたが、ついでに?専用軌道になりました。
街道も、橋が架かった道もあるものの分断された道もあります。立石道
上の地図にもある立石道は、古代の官道「東海道」です。その昔、武蔵の国と下総の国を直線的に結んでいた道なのです。
現在の奥戸橋付近に奥戸の渡しがありました。京成電車の開通で人通りが減りました。
途中から帝釈道が分かれます。 江戸市中から宵の庚申で柴又帝釈天へ提灯をともしてお参りした道です。
参考までに、測量法29条より |